ヴェゼルで松陰神社に行ってみた
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明治維新胎動の地、
山口県萩市にある
松陰神社に行ってきました。
松陰神社は、
文字どおり
吉田松陰先生を御祭神とする神社です。
1.御由緒
松陰神社の御祭神、吉田矩方命(以下松陰先生)が殉節されてから31年後の明治23年(1890)8月、松下村塾出身者などの手により松下村塾の改修が行われました。このとき松陰先生のご実家、杉家の人々の手で松陰先生の御霊を祀る土蔵造りのほこらが建立されました。これが松陰神社の前身であります。明治40年(1907)、松下村塾出身の伊藤博文や野村靖が中心となって、このほこらを公の神社として創建しようと、山口県に請願書が提出されました。同年10月4日に、当時の社格制度の中で県社の社格をもって創建が許可され、土蔵造りのほこらを松下村塾南隣に移して本殿としました。萩城の鎮守で、当時廃社となっていた、宮崎八幡宮の拝殿を譲り受け移築するなど、境内の整備が進められました。昭和11年(1936)、松陰神社改築奉賛会が設立され、翌年には王政復古七十周年記念事業として、神社神域拡張工事が着工されました。昭和15年(1940)には新社殿が起工され、同17年(1942)には桧皮葺の社殿が竣功しました。しかし大東亜戦争が激しさを増し、国家総力戦の様相を呈するに至り、遂に御遷座されないまま終戦を迎えました。戦後、社会情勢が落ち着くと、厚東常吉などが中心となり事業を再開しました。新社殿屋根を銅版に葺き替えるなどの改修工事をおこない、ついに昭和30年(1955)10月26日に御祭神が新社殿に遷座されました。これが現在の松陰神社本社であります。翌昭和31年(1956)には、旧社殿を新社殿北隣に移し、松陰先生の塾生、門下生を御祭神とする末社・松門神社が建立されました。平成22年(2010)10月、松陰先生御生誕180年記念に10柱を追合祀しました。更に平成27年(2015)10月、松陰先生の遺書「留魂録」を守り抜き、後世に伝えた功績をもって、沼崎吉五郎命を合祀し、現在その御祭神は53柱であります。
2.松下村塾
境内には、
2015年世界遺産として登録された
「松下村塾」があります。
「学は、人たる所以を学ぶなり」
安政2年(1855)12月、獄を出て杉家宅で幽閉された先生は、家族などを相手に、獄内に引き続いて『孟子』の講義をはじめます。これに近隣の子弟が大勢参加するようになると、杉家の庭先の小屋を改装し、塾舎としました。これが現在も松陰神社境内に保存される松下村塾です。塾を主宰した松陰先生は数多くの人材を育て、その塾生達は明治維新を成し遂げる原動力となりました。
3.至誠館(松陰神社宝物殿)
松陰神社宝物殿は、松陰先生が安政6年(1859)に、安政の大獄により江戸で 刑死、殉節されてから150年となる平成21年(2009)を迎えることを記念し て建設されます。松陰先生が遺された著述、物品を永久保存を目的とし、それらを 展示することを通じて、松陰先生の思いを現代に伝えます。
吉田松陰先生が塾生や兵学校門下生に宛てた遺書
「留魂録」が展示されています。
巻頭には、
弟子宛の辞世の句、
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
が添えられています。
4.辞世の句
家族宛の辞世の句は、
「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」
の石碑が建立されています。
5.御朱印帳
6.御朱印
松陰先生の名言、
「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」
の「至誠」でしょうか?
有り難く頂戴いたしました。