ヴェゼルで下関に行ってきた
ヴェゼルで
下関の神社めぐりをしてきました。
御朱印もいただきました。
1.長門國一宮 住吉神社
こちらは、
大阪・福岡の住吉神社とともに
日本三大住吉神社の一つに数えられています。
本殿は国宝です。
応安3年(1370年)大内弘世の再建で、室町初期の代表的な建築物です。九間社流れ造りといって、五社殿を合の間で連結し、社殿上の正面屋根(檜皮葺)に千鳥破風をのせ、春日造りと流れ造りを組み合わせた特徴のある建物です。
境内には、
御神霊樹の大楠があり、
パワースポットとして有名です。
御朱印
2.関の氏神 亀山八幡宮
亀山八幡宮は、下関市の中心地に祀られています。御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・仁徳天皇。平安時代・貞観元年(859)に宇佐八幡宮から勧請されました。「関の氏神さま」「亀山さま」と親しまれている亀山八幡宮がある地は、古くは島でありました。
平安時代・貞観元年(859)に、京の都の守護のため宇佐神宮(大分県)から石清水八幡宮(京都府)に勧請される途中、この島の麓に停泊されました。その夜、「此の山清浄なり、我もっとも愛す。暫らく祭祀し奉り路を進むべし」とのご神託があり、供の勅使は国主に命じ仮殿を造営させてお祀りし、再び京に向かわれたと伝えられています。(享保年間「防長社寺由来」記載)
「亀山」という名称は、当時島の形が亀に似ていたとも、宇佐の八幡様がお祀りされている山が亀山だからともいわれています。
日本一の大鳥居
御影石鳥居としては日本最大の鳥居です。
山陽道碑
宮麓は山陽道の起終点に当たり関所(船番所)が置かれ、
周防灘三関(上ノ関、中ノ関、下ノ関)の一つで、
「下関市」の名称はこれに由来します。
お亀明神社
下関開作のために人柱となった「お亀さん」祀られています。
日本一のふくの像
御朱印
3.赤間神宮
寿永4年(1185年)3月、平家は滅亡の時を迎えます。
安徳天皇は母が平清盛の娘・徳子(建礼門院)であったため、源平合戦で平氏が源氏に敗戦を重ねると、平家一門と一緒に都落ちすることに。
ここ下関の壇ノ浦の戦いで初めは優勢であった平氏も、潮の流れが変わると次第に劣勢になり、敗北が決定的となると安徳天皇の祖母である二位尼(平清盛の妻)が、安徳天皇を抱きかかえ入水。わずか8歳で生涯を終えます。
※京では寿永3年に元号を元歴に変えていましたが、平家は滅亡まで寿永を使用していました。
建久2年(1191年)、壇ノ浦を望むこの地に、時の後鳥羽天皇の命により御影堂が建立されます。当初は阿弥陀寺と称し、安徳天皇の霊を慰めるお寺で、勅願寺でもありました。
明治維新後の神仏分離令により阿弥陀寺を廃し、新たに天皇社を設立、赤間神宮となります。
最初から安徳天皇を神として祀ったわけではなく、お寺を神宮へと転向させているからでしょうか、パワースポットであるこの神宮には何か通常の神社とは異なる気が漂っています。
耳なし芳一
小泉八雲の怪談「耳なし芳一」は、この阿弥陀寺(赤間神宮)が舞台です。
小泉八雲の怪談に出てくる話ですが、その舞台がこの阿弥陀寺(赤間神宮)。琵琶の名人であった盲人の芳一のことです。昔は盲人は琵琶を弾き、平家物語などの物語を琵琶に乗せて語っていました。
この芳一の琵琶があまりにも見事であったため、平家の亡霊がぜひ聞きたいと、ある夜芳一を連れ出します。そこにはたくさんの平氏の武将がおり、女子供もいました。「壇ノ浦の合戦」の件に、平家一門の亡霊は、芳一の琵琶の音・語りに涙を流します。
満足した平家の亡霊は「7晩聞かせて欲しい」と頼み、芳一は毎夜言われたとおりに出かけました。
毎夜のことなので、寺の僧が不審に思い後を付けたところ、芳一は暗闇の中お墓の前で琵琶を弾き、平家物語を語るその周りにはたくさんの鬼火が…。
これでは芳一は平家の怨霊に憑き殺されてしまうと、阿弥陀寺の和尚が芳一の全身に般若心経を書き「今夜は声を出さないように」と言います。
その晩平家の亡霊が現れましたが、芳一が見つかりません。呼んでも芳一は返事をしないように言われているので、返事はありません。平家の亡霊はふと、芳一の耳だけがあることに気づき「せめて耳だけ持って帰ろう」と耳をもぎ取って行きました。
耳だけはお経が書いていなかったのです。
この耳なし芳一のお堂の横には平家一門のお墓があります。
御朱印
下関の神社・仏閣は、見どころ満載です。
「城下町長府」編につづく。。。。。