宮島で御朱印巡り
Contents
安芸の宮島で御朱印巡りをしてきました。
1.厳島神社
嚴島神社の創建は、推古元年(593年)、佐伯鞍職によると伝えられます。平安時代後期の仁安3年(1168年)には、佐伯景弘が嚴島神社を崇敬した平清盛の援助を得て、今日のような廻廊で結ばれた海上社殿を造営。本殿以下37棟の本宮(内宮)と、対岸の地御前に19棟の外宮が設けられ、全て完成するまでに数年が費やされたといわれます。社運は平家一門の権勢が増大していくにつれ高まり、その名を世に広く知られるようになりました。
鎌倉時代から戦国時代にかけて政情が不安定になり荒廃した時期があったものの、弘治元年(1555年)、厳島の合戦で勝利を収めた毛利元就が神社を支配下に置き庇護したことから、社運は再び上昇。天下統一を目前にした豊臣秀吉も参詣して武運長久を祈願しており、その年安国寺恵瓊に大経堂(千畳閣)建立を命じています。
嚴島神社は社殿が洲浜にあるため海水に浸る床柱は腐食しやすく、また永い歴史の間には幾度となく自然災害や火災に見舞われてきましたが、その度に島内外の人々の篤い信仰心に支えられて修理再建され、今日まで平安の昔さながらの荘厳華麗な姿を伝えています。
・厳島神社の御朱印
2.大願寺(だいがんじ)
正式な呼び名は、亀居山方光院大願寺。開基は不明ですが、建仁年間(1201年~1203年)の僧了海が再興したと伝えられる真言宗の古刹です。明治の神仏分離令までは嚴島神社の普請奉行として寺院の修理・造営を一手に担い、千畳閣、五重塔、多宝塔などから形成される厳島伽藍の中心をなしていました。
この寺の秘仏厳島弁財天は弘法大師空海の作と伝えられ、日本三弁財天の一つ。弁財天は現世利益の女神様で、神仏習合の時代は嚴島神社の主神・市杵島姫令が理財の女神として崇められるようになり、仏教の弁財天と同一視されていました。神仏分離令によって嚴島神社から遷されたこの厳島弁財天をはじめ、宮島に現存する仏像の中で最も古いとされる木造薬師如来像(重要文化財)、千畳閣の本尊だった木造釈迦如来坐像(重要文化財)、その両脇を守っていた阿難尊者像と迦葉尊者像(ともに重要文化財)、五重塔の本尊だった三尊像、多宝塔の本尊だった薬師如来像、護摩堂の本尊だった如意輪観世音菩薩などを収蔵しています。
また、本堂奥の書院は、第二次長州戦争の際、勝海舟と長州藩を代表する藩士らが講和会議をした場所として知られます。
・大願寺の御朱印
3.大聖院
宮島にある寺院の中で最も歴史が古いのが、真言宗御室派(総本山仁和寺)の大本山大聖院です。
空海が宮島に渡り、弥山の上で修行をして開基したのが806年といいますから、歴史の重みを感じない訳にはいきません。
皇室との関係も深く、古くは鳥羽天皇勅命の祈願道場として、近くは明治天皇行幸の際の宿泊先になるなど、格式の高いお寺といえます。
・大聖院の御朱印
4.豊国神社(千畳閣)
天正15年(1587年)、豊臣秀吉が毎月一度千部経を読誦するため政僧・安国寺恵瓊に建立を命じた大経堂です。島内では最も大きな建物で、畳857枚分の広さがあることから千畳閣と呼ばれてきました。秀吉の急死によって工事が中止されたため、御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成のままの状態で現在に至っています。江戸時代、既にここは交流の場・納涼の場として人々に親しまれていたようで、大きな柱には当時の歌舞伎役者一行の名や川柳などが記されています。明治の神仏分離令により仏像は大願寺に遷され、秀吉公を祀る豊国神社となりました。